陀羅尼助の歴史

「陀羅尼助」の起源は?

陀羅尼助の創製は、遙か白鳳年間にさかのぼり、山伏の元祖であり、修験道の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)の創薬と伝えられています。この人は奈良県の茅原の里(現在の御所市茅原)に生まれたといわれています。

役行者はその霊力を高めるために長い間各地で修行を重ねました。とくに修験道の聖地である大峯山は深山幽谷の地にあり、彼の根本道場にふさわしい場所でした。ここで役行者は厳しい鍛錬を続けました。薬草などの知識をもっていた役行者は山中に自生するキハダから煎じた煮汁を煮詰めたエキスを乾かしてクマ笹などに包んで持ち歩いたのでしょう。

この陀羅尼助の原型となる薬は、山伏たちの持薬・施薬として用いられたようですが、下痢止めと整腸の両方の作用を兼ね備えた、優れたくすりでしたがこのお薬には当初は定まった呼称はありませんでした。


「陀羅尼助」という名前の由来は?

それでは、どのようにして「陀羅尼助」という一風変わった名前が冠せられたのか?

これについては本当にさまざまな説がありますが、少し推理してみましょう。奈良時代に「薬狩り」という行事が梅雨入り前に行われていました。今でいう端午の節句の始まりですが端午の節句以降は梅雨に入り台風や疫病などの厄災も多くなるので、気候のおだやかなこの時期に健康を増進させ、病魔や災いを遠ざける意味合いでおこなわれた行事でしたが菖蒲(しょうぶ)の葉を屋根に吊して災いを祓うこともおこなったようで、現在でもこの時期に菖蒲湯に入る風習の残っている地方もあります。

この日、男性は狩りを行い、女性達はさまざまな薬草を採集し集め、色や形を競い合う「百草を闘わす」というようなことが行われたようです。男は家族のために食料を蓄え、心身を鍛える。女は病の時のための薬草を集める。おそらく生活に欠くことのできない行事だったのでしょう。平安時代にはいると簡素化はされましたが薬草を集めて「薬玉」をつくるようなことだけは残されたようです。この「薬玉」のごとく百草を集めてひとつ釜で煮詰めますと、さまざまな生薬の効能が凝縮された少量のエキスが得られます。

同じように宗教の分野でよく出てくる「陀羅尼」もお経の大事な部分を要約したもので万巻のお経もご真言(陀羅尼)に要約されてしまうといいます。ここから「陀羅尼」のように効能が凝縮されたお薬 ⇒「陀羅尼」+「助」(薬)となった。と考えるのが一番自然なような気がいたします。

当時、お寺というのは現在の古くさいイメージとは全く逆で、生活文化の情報発信基地であり、最先端の情報にふれられる場でもありました。医療の分野でも施薬をおこなっており東大寺、薬師寺、当麻寺、延暦寺などでは陀羅尼助などの薬を販売していました。お薬はお寺の宣伝に一役も二役も担っていたのです。功徳のあるお経と薬の効き目を融合させることでお寺のコマーシャル効果がより高まったことでしょう。

二匹の鬼 [前鬼 ZENKI と 後鬼 GOKI]

修験道の開祖であり、陀羅尼助の生みの親とも伝えられる役行者にはいつも 二匹の鬼(従者)が従っていました。前鬼は先導と護衛を担い、後鬼は食料や水を担いだ従者と思われます。大峯山の麓の天川村洞川は昔からこの後鬼の里であると言い伝えられています。この二匹の従者は 下北山村「前鬼」に居を構えます。一説には夫婦であったともいわれますが定かではありません。その子孫達により下北山村「前鬼」には中ノ坊(鬼上)、不動坊(鬼童)、行者坊(鬼熊)、森本坊(鬼継)、小仲(おなか)坊(鬼助)の五つの宿坊ができ役行者の遺訓に従い大峯山脈で修行する山伏を助けるべく5軒の宿を営んでおりました。

しかし、その後、修験道の衰退などにより一軒また一軒と土地を離れるようになり現在は鬼助の子孫が奥駆けなどの修行の行われる時期だけ宿を開くのみとなりました。

一方「後鬼の里」の天川村洞川では昔から役行者から伝授されたとされる「陀羅尼助」を製造して生計をたてる者も多く、また、大峯山修行にも利便性が良かったために精進落としの宿場町として発展し、修験道の根本道場「龍泉寺」を中心にして修験道の拠点として繁栄していきました。

江戸時代以降になると「陀羅尼助」は大峯山で修行を重ねる山伏や寺社などを媒体として宗教的・神秘的な魅力も相まって、次第に各地に広まっていきました。

史実の中に見る陀羅尼助

 (山頂の大峯山寺を出る山伏)
 (山頂の大峯山寺を出る山伏)

「後寓昧記(ごぐまいき)」 は南北朝期の内大臣三条公忠(キンタダ)の日記で「公忠公記」ともいい、康安元年から永徳3年(1361~1383)までを記した南北朝後期を代表する日記のひとつですが、このなかに大峯山の薬草が京都の公卿の間で珍重されたということが記述されているそうです。

江戸時代の元禄の頃、薬問屋にも株仲間という組織ができ幕府はここから冥加金をとっていました。大和の国にも南都薬種株なるものができていて、ある日南都薬種株から「吉野山の天野屋左門に陀羅尼助の株を許可したので洞川も左門方に株を受けに参るように」と通知が届きました。驚いた洞川の村人が「洞川こそ陀羅尼助の本家」であると主張しました。その後それが認められてことなきを得たことがあったようです。

江戸時代の徳川吉宗の時代、延享4年(1747年)に大阪の竹本座で「義経千本桜」が上演されました。歌舞伎や浄瑠璃で有名な演目で、追われた源義経が静御前をつれて吉野に逃れる悲しい物語です。三段目「椎の木の段」(下市の茶屋)では、茶店をやっている「いがみの権太」の内儀が洞川の陀羅尼助を近くの寺の門前に買い求めに行く場面があります。この頃すでに陀羅尼助があちこちで販売されていたことがよくわかります。

門左衛門亡き後の文楽を支えた、近松半二の処女作「役行者大峯桜」(1751年)。その中に登場してくるのが泥川(洞川)の「薬売り陀羅助」です。四、五段目は陀羅助の里(洞川)が舞台となり「薬売り陀羅助」の大活躍する場面です。近年「役行者大峯桜」は演じられなくなったそうですが、「陀羅助」というかしらは今も様々な演目で使われています。苦みばしった悪役が多いらしいですが、なにか「陀羅尼助」の苦さと通じるものが感じられておもしろいですね。

江戸時代の狂歌作者 大田蜀山人(おおたしょくさんじん)は「一話一言」(1820年)で、陀羅尼助(だらにすけ)をとりあげています。「ここに陀羅尼輔(だらにすけ)と言へる薬あり。それを調じぬる所にいたりて見るに、黄檗(おうばく)のなまなましき皮を煮つめたものなり、大峯にて焚ける香のけぶりのたまれる百草をまじへて加持したるものなりなどいへるはよしもなきことなり」と書いています。

慶応3年(1867年)ローマ字を創ったヘボン編纂、日本初の和英辞典「和英語林集成(わえいごりんしゅうせい)」に、売薬として万金丹とこの陀羅尼助だけを収録しています。

当時、すでに世間に広く知れ渡っていた売薬であったことの証左でしょう。

★義経千本桜[文楽]

平家を打ち倒した源義経が兄の頼朝にも追われて逃げる道中を伝説や史実、虚構を織り交ぜて描いた有名な作品です、その中に旅の疲れから疳の虫(かんのむし:子どもが泣きわめいたり、ひきつけを起こすこと)を起こした六代君(ろくだいぎみ)のために、茶店の主人が「近くに、洞呂川(どろがわ:現在は洞川)の陀羅助(だらすけ)を売る店がある」と、薬を買いに行く場面があります。このように「陀羅尼助(だらにすけ)」は、江戸時代にはすでに胃腸薬としてよく知られたお薬であったようですが、このお話から何百年も経った今でも、胃腸薬として愛され続けているんですね。

川柳、俳句に見る「陀羅尼助」

江戸時代にさかんに歌にとりあげられた「陀羅尼助」

やはり、その苦みと色は

当時からのトレードマークだったようです。




「だら助は 腹よりはまず 顔にきき」
 顔にまず出る、だらにすけの効き目?


「花を見し 土産に苦し 陀羅尼輔」
 吉野の花見の土産に人気だったようです


「だらすけを のんで静は 癪(しゃく)をさげ」
 義経の愛妻、静御前の腹痛も治りましたとさ


「だらすけを 呑むようによむ 無心状」
 金を無心するのもつらいですが・・・・


「黒白の土産 久助陀羅尼助」
 吉野葛「久助」の白さと陀羅尼助の黒の対比の妙